家族との
当たり前が
一番の
しあわせ。

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「家族との時間を大切にしたい」
「海の見えるところに住みたい」という思いで、
隠岐諸島の知夫村へ移住をした稲澤夫妻。
離島での仕事は? 暮らしは?
一体どうなのでしょうか。
ちょっと、のぞいてみましょう。

島暮らしは
予期せぬことの連続!

隠岐諸島の中でも一番小さな有人島「知夫村」。この島は島民より放牧牛、はたまたタヌキの方が多いとも言われている。そんな動物率の高いのんびりとした島に、神戸から移住した稲澤義治さん、千夏さんファミリーが暮らしている。

島の朝は早い。朝の目覚めはアラームの音でもなければ、ニワトリの鳴き声でもない。7時頃になると「起きとるんかー。サザエもってきたぞー」という声で目覚めることがしばしば…。サザエを抱えた近所のおじさんが玄関から家にドガドガと上がり、そのままキッチンへ行きサザエを置いて帰っていくのだ。「そりゃ、はじめはびっくりしましたよ! 朝から何事かと思いました。でも、それが島の暮らしなんです」と稲澤夫妻は話す。その笑顔はすっかり島民の顔だ。

出会ったのも離島
やっぱり自然が好き!

そんな稲澤義治さんと千夏さんが運命的な出会をしたのは今から8年前。東京から南南東約1000kmも離れた小笠原諸島の島だった。オーストラリアで暮らしていた義治さんは、帰国後に小笠原の無人島で外来種の植物を伐採する仕事をしていた。「オーストラリアの壮大な自然に触れてしまうと、ネクタイをしめたサラリーマンをすることができず、自然と関わる仕事を選びました」と話す。一方、千夏さんは神戸市で忙しく働き続けたパティシエの仕事を辞め、30歳の節目となる年に自分を見つめ直そうと開放感のあふれる小笠原諸島へ渡ったのだ。

非日常的な島で必然であったかのように二人は出会い、翌年に結婚。それを機に神戸へ引っ越すこととなった。子どもが生まれ、生活のために会社員となった義治さん。運送の仕事は昼夜逆転し、家族と生活リズムがすれ違っていった。それに加え、自然を身近に感じられない暮らしへの違和感しかなかった。そんな気持ちでは仕事が長続きするわけもなく、幾度も職を変えた。「やっぱり自分は自然の中がいい。家族と向き合いたい」と思ったときに頭に浮かんだのが「田舎への移住」だった。夫婦で話し合い、お互い好きだった「海」の見えるところをターゲットに新天地を探し始めた。

「大阪で開催していた〝しまねUターンIターンフェア〟へ行きました。中でも隠岐の知夫村のブースがすごーーーく暇そうだったんですよ!」と思い出し笑いをする千夏さん。しかし知夫村ブースで流れていた映像に釘付けとなる。求めていた自然美、のどかな風景がそこにはあり、一瞬にして心を奪われたのだった。
「自然は申し分ない!あとは仕事を探すだけでした。ちょうど知夫村の地域おこし協力隊制度で、なんと〝牛飼いコース〟があり募集をしているとのこと!地域おこし協力隊の任期を終えても、牛飼いになれる道が見えていたことが後押しとなりました」と義治さんは話す。そして一家4人で海の見える小さな村へ引っ越した。

田舎の洗礼を受けながら
あくまでもマイペースに。

「後になって分かったのですが、移住する前から〝パティシエが知夫村に来るぞ!〟と村でウワサになってたようなんです」と初っ端から田舎の情報筒抜け事情の洗礼を受けた千夏さん。その情報もあり村のイベントでブースを出してほしいと言われ、シュークリームをつくり出店することとなった。すると大好評で即完売! 実は知夫村にはケーキ店が1つもなかったのだ。千夏さんのシュークリームが絶品だったことは言うまでもない。それから徐々に誕生日ケーキなどの注文がくるようになり、自ずとパティシエとして働く流れができてきたのだった。
「おかげさまで皆様に喜んでいただき、注文が増えてきたので本格的に機材を揃えて、家に〝めにーでーる〟という工房をつくりました。現在は、ケーキなどの受注販売や小さなスーパーにケーキとパン、和菓子などを卸しています」と千夏さんは話す。

義治さんは、地域おこし協力隊の期間を終えると「イナザワファーム」として放牧業に本腰を入れた。はじめ3頭だった牛も今は17頭となった。牧場では牛を育てて子牛を産ませ、子牛を出荷することが収入源となる。朝、夕に牧場へ行き餌をやったり、牛舎の掃除をしたり。牛の体調管理も欠かせない仕事の一つである。その傍ら、子どもたちの保育園の送迎もしている。「今までの仕事の中で一番〝牛飼い〟があってますね。分刻みのスケジュールがないと落ち着かないという人には向かないでしょうが、一人でできるし時間の制約もない。自分の匙加減で行動できるところがいいです!」と話す。最近はのんびりとした知夫村の時間と義治さんのペースがかみ合い、義治スタイルが確立されてきたところだ。

子育てはみんなで
島は大きな家族。

「出身が山口と岡山なので、実家にすぐ帰れる距離の中国地方圏で移住を考えていたのですが、まさか離島になるとは」と話す稲澤夫妻。知夫村はフェリーの便数も少なく、本土の松江市へ渡って、それから電車に乗るのも一苦労。スイーツに使う材料も知夫村にはないため隣の西ノ島まで内航船に乗り、買いものへ行く。買いものの楽しみは「100円コーナーでのおもちゃの爆買い!」。子どもたちも大はしゃぎで、プチ贅沢を楽しんでいる。

その2人の子どもたちは、いつも近所を元気に走り回っている。どこか特別な場所へ行かなくても目の前が海、庭でキャンプもしている。家にダンボールで秘密基地をつくったり、近所迷惑を気にせず義治さんのドラムをハチャメチャに叩いたりしている。学校から帰ると、隣のおばあちゃんのところでおやつを食べたり、そうかと思えば友だちの家に上がり込んでゲームをしたりしている。「いったいいつもどこへ行ってるのやら…」と千夏さんは言う。島では親だけではなく、近所の人、島の人たちが子どもたちを見守っているスタイル。多くの人に支えられて育つ島の子どもたちは屈託なく、おおらかに育っている。
「子どもの人数も少ないですし、島にとって『子どもは宝』なんです。皆の顔が分かるからこそ島全体で子育てしもらっている感じで、とても感謝しています。あと島の人は顔を見るとすぐ〝家にあがって、お茶飲んでいけ〟と言うんです。子どもたちにもそうなんでしょうね」と千夏さんは笑う。

義治さんは子どもとお風呂に入ったり、台所で皿を洗っている時に子どもが足にまとわりついたりする何気ないことに「幸せ」を感じると言う。以前は子どもたちと一緒にご飯を食べることがほぼなかったため、何気ない触れ合いのひと時が尊いと思えるのだ。島での生活は稲澤さん一家にとって理想的な家族の暮らし方ができている。

知夫村に移住して約3年。これからは島で採れた野イチゴやフクギ、栽培しているレモンやアンズ、ウメなどを完熟で収穫し、特産品づくりをしようと計画中。植物を育てるのは義治さんが担当し、商品づくりを千夏さんが行うなど島の恵みを発信していく予定である。

稲澤義治さん・千夏さん
稲澤義治さん
千夏
さん
義治さんは山口県出身。ワーキングホリデーでオーストラリアへ渡る。帰国後は小笠原諸島で暮らす。千夏さんは岡山県出身。パティシエになるため専門学校をを卒業し、大阪や神戸の洋食店で働く。8年前に二人は出会い結婚。2018年に隠岐郡知夫村に移住した。 ※掲載記事は取材時点の情報となります。

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